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斎藤家

斎藤道三 さいとう どうざん (1494~1556) 斎藤家
 美濃の戦国大名。松永久秀宇喜多直家と共に三大梟雄のひとりに数えられ、「美濃の蝮(マムシ)」の異名をもつ。一介の商人から成り上がり、美濃守護・土岐家の重臣・長井家を乗っ取って力をつけ、その後、守護代・斎藤家の名跡を継いで守護・土岐頼芸を追放、美濃一国を手に入れた。この覇業は、これまで道三一代の功績とされてきたが、最近では親子二代による功績というのが定説になっている。越前の朝倉孝景、尾張の織田信秀の侵攻に耐え、のちに娘・帰蝶を信秀の嫡男・信長に嫁がせて織田家とは同盟を結んだ。聖徳寺で信長と会見して以来、信長を高く評価し、そのことが嫡男・義龍との仲が険悪になった一因ともいわれる。隠居後、次男以下を溺愛し、義龍の廃嫡を考えたため、それを知った義龍に攻められ長良川河畔で討死した(長良川の戦い)。義龍の采配を見て、自分の評価が間違っていたと後悔したともいわれる。


斎藤義龍 さいとう よしたつ (1527~1561) 斎藤家
 美濃の戦国大名。道三の長男。母は側室・深芳野(みよしの)。母・深芳野は、かつて道三が追放した美濃守護・土岐頼芸の妾だった女性で、のちに道三の側室となった。そのため、義龍は道三の実子ではなく、頼芸の子ともいわれる。それに道三が娘婿である織田信長を義龍よりも高く評価していたことや弟たちを溺愛したこともあいまって親子関係は険悪だったという。道三の隠居により、家督を継ぐが、その後、道三が義龍の廃嫡を考え始めたため、弟たちを殺害して兵を挙げる。美濃を手に入れるための謀略、謀殺の所業もあって道三に味方する者は少なく、長良川の戦いで道三を討ち取って名実ともに美濃国主となった。存命中は信長の侵攻も許さなかったが、35歳の若さで急死し、斎藤家の衰退を招いた。


斎藤龍興 さいとう たつおき (1548~1573) 斎藤家
 美濃の戦国大名。義龍の子。父の急死により家督を継ぐ。酒食に溺れ、家臣・竹中半兵衛に城を乗っ取られて諫言されるなど不出来だったといわれる(近年、半兵衛による城の乗っ取りは、安藤守就を主犯とする謀反といわれる)。そのため、美濃三人衆らを織田信長に調略され美濃を追われた。その後、長島の一向一揆に参加。さらに三好三人衆とも手を組んで常に信長に対抗するが、美濃を取り戻すことはできず、最後は朝倉義景のもと、刀根坂の戦いで討死した。


足立六兵衛 あだち ろくべえ (?~1561) 斎藤家
 斎藤家の重臣・日比野清実の家臣。素手で首を取るほどの怪力の持ち主で「首取り足立」と呼ばれた猛将。1561年、美濃侵攻を開始した織田軍と戦った森部の戦いで、当時、織田信長の勘気をこうむり浪人として参戦していた前田利家に討ち取られた。利家はこの武功で帰参が許された。


安藤守就 あんどう もりなり (?~1582) 斎藤家
 美濃斎藤家臣。美濃三人衆のひとり。道三義龍龍興の三代に仕えたが、龍興が不出来であったため、織田信長に内応して美濃攻略に協力し織田家臣となった。その後、各地を転戦して活躍するが、突然、「野心あり」との嫌疑をかけられ、林秀貞らと共に追放された。本能寺の変後、明智光秀の助力を得て再起を図るが、同じ美濃三人衆のひとり・稲葉良通(一鉄)に攻められ自害した。


稲葉良通 いなば よしみち (1515~1589) 斎藤家
 美濃斎藤家臣。美濃三人衆の筆頭。一鉄の号でも知られ、一筋や気が強いを意味する「一徹」の語源になったといわれる。道三義龍龍興の三代に仕えたが、龍興の器量を見限って織田信長に内応し、織田家臣となった。信長の美濃攻略後も姉川の戦い、長篠の戦い、一向一揆との戦いで活躍する。本能寺の変後は、明智光秀の後ろ盾を得て挙兵した安藤守就を討ち、その後は羽柴(豊臣)秀吉に仕えて、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いにも参加した。江戸幕府3代将軍・家光の乳母・春日局の縁戚にあたり、春日局の父で明智光秀の家臣だった斎藤利三が処刑されると、まだ幼少であった彼女を引き取り養育した。


氏家直元 うじいえ なおもと (1512?~1571) 斎藤家
 美濃斎藤家臣。美濃三人衆のひとり。号は卜全。道三義龍龍興の三代に仕えたが、龍興の器量を見限って織田信長に内応し、美濃攻略に協力した。その後、伊勢攻略でも活躍したが、長島一向一揆討伐での敗北で、殿をつとめ討死した。


不破光治 ふわ みつはる (?~?) 斎藤家
 美濃斎藤家臣。安藤守就稲葉良通(一鉄)氏家直元(卜全)の美濃三人衆に加え、美濃四人衆と呼ばれることもある。斎藤家が滅亡するまで忠義を尽くしていたといわれる。斎藤家滅亡後は織田信長に仕え、槇島城の戦い一乗谷の戦いなど各地を転戦して武功を挙げる。柴田勝家が北陸方面軍の総大将となると与力となり、前田利家佐々成政と共に府中三人衆のひとりに数えられた。しかし、勝家に完全につけられたわけではなく、その後も信長の命により雑賀攻め、伊賀攻めなどにも参加している。



外国人

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (1539~1606)

 イタリア出身のカトリック司祭でイエズス会の宣教師。1579年、肥前に辿り着き宣教活動を始める。宣教は、日本の慣習を取り入れながら進めたという。ザビエルの活動によって、すでにキリシタンとなっていた大友宗麟高山右近との謁見を経て、1581年には織田信長にも謁見した。その後、よりヨーロッパを知ってもらうために天正遣欧少年使節団を企画、実施し、使節団を率いて一旦、日本を離れた。1590年、使節団を伴って再来日して豊臣秀吉と謁見を果たすと、長居はせず再び日本を去る。1598年に三度目の来日を果たし、巡察後にマカオへ行き、同地で没した。


ウィリアム・アダムス (1564~1620)
 イングランド人の航海士。イングランドにいた時は、イングランド海軍に所属し、フランシス・ドレーク指揮のもと、アマルダの海戦に参加したことがある。1589年、オランダ人と極東を目指す航海に参加し、1600年、関ヶ原の戦いの約半年前に豊後に漂着し捕縛された。大坂へ護送されると、ヨーロッパで敵対勢力であったイエズス会士の讒言で処刑されそうになるが、当時、豊臣政権の最高権力者であった徳川家康の誤解を解き、逆に気に入られた。関ヶ原の戦い後、海外貿易で国を富ませようとした家康の外交顧問となり、三浦按針という日本名も与えられて活躍の場を得たが、家康の死後、幕府が鎖国へと方向転換していく中で冷遇され、失意のうちに平戸で亡くなった。


ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ (1553~1609)
 イタリア出身のカトリック司祭でイエズス会の宣教師。1570年、天草諸島に辿り着き宣教活動を始める。日本の文化、慣習を学んだのち、ルイス・フロイスと共に京での宣教活動に従事し、フロイスが活動記録の執筆に専念するため宣教活動を辞めたあとも、京での活動の責任者として活躍した。温和な性格で人間的魅力にあふれていたため、日本人に好かれたという。その半面、寺社勢力に対してはキリシタン大名による寺社破壊を賞賛するなど過激な一面もあった。禁教令よる迫害や二十六聖人の殉教を見届けるなど、激動の時代を日本から一度も出ることなく宣教活動に一生を捧げた。


フランシスコ・ザビエル (1506~1552)
 スペイン出身のカトリック司祭でイエズス会の宣教師。イエズス会を創設した7人のうちのひとり。1549年、薩摩に辿り着き宣教活動を始める。薩摩での宣教は、薩摩の大名・島津貴久の許可を得ていたが、しばらくして貴久が禁教に傾いたため、京を目指した。しかし、京での宣教活動も上手くいかず、周防の大名・大内義隆に献上品を送ってようやく活動を軌道に乗せ、その後、豊後の大友義鎮(のちの宗麟)の理解も得て、その保護下でも宣教活動を行った。2年の滞在後、幾人かの宣教師を残して一度インドへ渡り、日本での宣教は、文化面で大きな影響を与えている中国での宣教も重要であると考え、中国へ行くが、そこで病を得て亡くなった。


弥助 やすけ (?~?)
 ポルトガル領であった東アフリカ(現モザンビーク)出身といわれる黒人。1579年、宣教師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノの従者として来日した。1581年、ヴァリニャーノが織田信長と謁見した際、信長に気に入られ、弥助という名を与えられて武士となった。奉公人ではなく武士であったことは、徳川家臣・松平家忠が著した『家忠日記』に書かれている。本能寺の変では信長と共に本能寺にいたが、異変を知らせに信長の嫡男・信忠がいた二条新御所に走り、そこで明智軍と戦った。激しい戦いの末に降伏して捕縛され、のちに解放されたが、その後は消息不明。


ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン (1556~1623)
 オランダ人の航海士。1589年、仲間のオランダ人、イングランド人の航海士・ウィリアム・アダムスらと共に極東を目指して航海に出て、1600年、関ヶ原の戦いの約半年前に豊後に漂着し捕縛された。ヨーロッパで敵対勢力であったイエズス会士の讒言により処刑されそうになるが、アダムスと共に当時、豊臣政権の最高責任者であった徳川家康の誤解をとき、のちに信頼され江戸に私邸を与えられた。私邸は現在の東京・八重洲にあったといわれ、日本名「耶楊子(やようす)」が「八重洲」の語源といわれている。朱印船貿易を行いながら、オランダへの帰国を目指したが叶わず、日本に戻る途中で船が座礁して溺死した。


ルイス・フロイス (1532~1597)
 
ポルトガル出身のカトリック司祭でイエズス会の宣教師。1563年、肥前に辿り着き宣教活動を始める。ザビエルが日本に残した宣教師たちから日本の事を学び、1565年に上洛すると、翌66年からは京における宣教活動の責任者となった。69年には、前年に足利義昭を奉じて上洛した織田信長に謁見し、仏教勢力と敵対していた信長に気に入られた。1581年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際には、通訳として同行し信長に紹介した。その後、文才があったため、イエズス会の総長から宣教活動の記録を命ぜられ、現在、戦国史の貴重な史料となっている『日本史』の執筆にとりかかった。一時、日本を離れたこともあったが、戻ったのち、1597年に二十六聖人の殉教の記録を残して病没した。



皇族 公家

後奈良天皇 ごならてんのう (1497~1557) 
 後柏原天皇の第二皇子。1526年、後柏原天皇の崩御に伴い践祚した。当時の朝廷は財政が逼迫しており、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしているほどだった。あまりの財政難ですぐには即位式を行えず、北条氏綱大内義隆今川氏輝らの献金によって、ようやく即位10年目にして式を行うことができた。清廉潔白の人で、献金と引き換えに位を授けるという行為を嫌ったが、周囲の説得でやむを得ずそうすることもあるほど、苦難の時代に生まれた天皇だった。


正親町天皇 おおぎまちてんのう (1517~1593) 
 後奈良天皇の第一皇子。1557年、後奈良天皇の崩御に伴い践祚した。父の時代同様、朝廷は財政難で毛利元就隆元親子の献金があるまでの2年間、即位式を行えなかった。しかし、織田信長の上洛によって事態は一変、結果的に信長に都合よく和睦や征伐の勅命を出すことになってしまうものの、信長の政策や献金によって財政難は解消した。信長死後も、豊臣秀吉が朝廷の後ろ盾を必要としたたため、天皇の権威も取り戻した。1586年に和仁親王(後陽成天皇)に譲位し、93年に崩御した。


後陽成天皇 ごようぜいてんのう (1571~1617) 
 正親町天皇の孫。1586年、正親町天皇の譲位により践祚した。即位当初、天下人となった豊臣秀吉は、関白、太閤の地位を利用したため、自然と天皇の権威も向上した。しかし、徳川家康が天下人となり幕府を開くと、その地位は尊重されるものの、監視下に置かれるようになる。即位中に宮中の風紀が乱れ、宮中女官の密通事件、猪熊事件を機に譲位を考えるようになり、のち幕府に認められて1611年に政仁親王(後水尾天皇)に譲位した。


後水尾天皇 ごみずのおてんのう (1596~1680) 
 後陽成天皇の第三皇子。1611年、後陽成天皇の譲位により践祚した。即位時、朝廷はすでに幕府の監視下に置かれていたが、1615年に禁中並公家諸法度が発布されると、幕府の許可なしでは何一つ決定権を持たない状態にされた。徳川家康は、孫娘・和子(秀忠娘)の入内を望み、家康死後に和子の入内が決まるが、入内にあたって寵愛の女官・四辻与津子を追放され、与津子の存在を黙認していた側近らが罰せられると、幕府との関係が悪化した(およつ御寮人事件)。その後も幕府によって度々辛酸を嘗めることが続き、遂に耐え兼ね、1629年に幕府へ通告しないまま譲位した。


烏丸光広 からすまる みつひろ (1579~1638) 
 権大納言。歌人、能書家として名を馳せ、1603年には細川幽斎(藤孝)から古今伝授を受けた。1606年に参議となり公卿に列したが、猪熊事件に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り蟄居を命じられた。後陽成天皇が譲位し、後水尾天皇が即位すると、勅免され、以後は天皇の信任を得て幕府との交渉役としてだけでなく、三代将軍・徳川家光の歌道指南役も勤めた。


菊亭晴季 きくてい はるすえ (1539~1617) 
 右大臣。豊臣秀吉が関白になるきっかけをつくった公卿。秀吉は、最初、足利義昭の猶子となって征夷大将軍になろうとしたが、義昭に断られ、将軍職を諦めていた。そこへ関白任官の話をもちかけ、秀吉を近衛前久の猶子とすることで実現させ、朝廷内での地位を確立した。1595年、秀次事件で娘を秀次に嫁がせていたため連座して越後へ流罪となるが、秀吉死後、朝廷運営に支障が出ると、徳川家康の推挙を受け右大臣に復帰した。


九条忠栄 くじょう ただひで (1586~1665) 
 関白、左大臣。九条兼孝の子。妻は豊臣秀勝お江(のち徳川秀忠正室)の間に生まれた完子。妻の完子を通じて徳川家と姻戚関係にあったため、朝廷と幕府の交渉役として活躍した。2度、関白に就任し、その任期中に猪熊事件およつ御寮人事件と、朝廷と幕府の関係が悪化する事件を2つも経験し、両者の関係修復のために奔走した。隠居後も幕府とは良好な関係が続き、九条家の繁栄をもたらした。完子との結婚は、完子の養母であった淀殿が、子・豊臣秀頼の関白就任を上手く進めるための政略的なものであったが、夫婦仲は良好で結婚期間は54年と長きにわたった。


近衛前久 このえ さきひさ (1536~1612) 
 関白、左大臣、太政大臣。五摂家筆頭、関白という身でありながら、人生の大半を流浪に費やした。その内容は、意気投合した上杉謙信の本拠、越後への下向に始まり、謙信の関東平定を助けるために上野、下総にも赴いた。織田信長が中央で勢力を確立させると、信長とも意気投合し、毛利包囲網を築くべく九州に下向して大友家や島津家と交渉を行った。本能寺の変では、秀吉に明智光秀との結託を疑われ、徳川家康を頼り遠江浜松へ下向したが、家康が秀吉に臣従すると、秀吉を猶子とし、秀吉の関白就任に協力した。1587年に隠居。1612年に薨去。和歌、連歌だけでなく、馬術、鷹狩りにも優れた風変りな公家だった。


広橋兼勝 ひろはし かねかつ (1558~1623) 
 内大臣。江戸幕府初代の武家伝奏。幕府の力が強くなっていく中で、度々、幕府と対立する天皇や公家をなだめ、朝廷と幕府の融和に尽力した。猪熊事件に娘の広橋局が関わり、謹慎処分を受けることもあったが、解任されることなく、徳川秀忠の娘・和子の入内宣旨の勅使をつとめたり、幕府が発布した禁中並公家諸法度を公家衆の前で読み上げる役目を果たした。武家寄りの行動をとったため、天皇の側近らから中国・秦の奸臣・趙高に例えられた。


山科言継 やましな ときつぐ (1507~1579) 
 権大納言。言継が山科家の当主だった後奈良正親町天皇の時代は、天皇も宸筆(天皇の直筆)の書を売って収入の足しにしていたほど朝廷の財政が逼迫していたため、言継も有職故実や笙(しょう(雅楽の管楽器))、製薬を家業としていた。朝廷の財政を司る内蔵頭として各地へ赴き、尾張の織田信秀、駿河の今川義元から献金の確約を得るなど活躍し困難を乗り越えた。織田信長が上洛してくると交渉役としても活躍し、山科家で初めて権大納言に昇進した。和歌、蹴鞠、双六を得意とする文化人でもあった。